FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

さまよい悩みながら

 還暦になり、やっと高専時代の老年期の先生方のことがすごく理解出来るようになった。当時、異常と思えるほど、夢を学生に語りかけ、君たちの夢にむかって歩めと、ことあるごと、どの先生も言葉や態度で指し示して、くれていた。当時、今の言葉で、うざい、あんたらの青春の忘れ物をわれわれに押し付けるんじゃねーやと、思ったりもしていた。その先生方の思いを小市民的な小さい夢と誤解し小ばかにしていた。自己中心で生意気で、廻りの人の思いや、他人の本当の優しさが、見えていなかった。受洗して、クリスチャンになっても、頭で理解できても、本当の理解は、出エジプト記のイスラエルの民のように、四十数年間、さまよい悩み人に迷惑をかけながら、不平不満を他人のせいにして自己防衛につとめ、一番大切な方から逃避をして、必要なときには泣きつく。今自分の生き様を振り返り、

主よ、ありがとう感謝しますと

今になり、私の周囲のいろいろな人に感謝できます。


スポンサーサイト

 忘れないうちに 

4.青年期その2
 その当時(1960?75年頃)、日本社会は、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、アジアの近国の動乱により、急速に経済発展途上にあった。生活も日ごとに贅沢になっていきました。飢えから開放されると、日本は、自分たちはアジアの国の犠牲、とくに朝鮮、ベトナム特需の上に乗っかって繁栄していることに、疑問を感じ、若者たちが動きだしていました。1960年安保闘争によって、生じたうねりは、私たち団塊世代をいやおうなしに、のみこんでいました。ベトナム反戦運動、70年安保反対闘争、大学紛争、三里塚空港反対闘争、沖縄返還運動等諸問題が一気に私たちのまわりで動き出していました。
 そのような状況の中、淡路島に新国際空港を建設する案が国より提起された。明石の町でそのことを語り合う会が、市民有志主催により開かれた。2?30人ぐらい参加していたと記憶しています。色々な意見が話され、活発なやり取りがなされ有意義な会でした。その主催者の一人のAさんとの、長い付き合いが始まりました。クリスチャンではありませんでしたが、その生き様は神様の前でも恥ずかしくないものでした。謙虚、質素、人の為に死後献体を決意し実行、目立たず人知れず善意を行う人でした。 
 その会に参加した人々と、淡路島に新国際空港の建設について考える地元集会を淡路島各地で開催するキャラバンを実行しました。そこに来賓としてきていただいた、敬虔なクリスチャンである三里塚空港反対同盟の初代委員長戸村伊作さんにお会い出来、社会問題に対する姿勢等を学ばせていただきました。
神様の指し示す光の中に守られ、混沌とした不条理な社会運動の闇にはまらずに過ごせたのは、社会人としてのいき様を学ばせてくれたAさん、そして信仰と社会生活ついての師、増田聖先生、戸村伊作さん先輩諸氏が導いてくださったおかげです。

忘れないうちに

創世記1章3?4節
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
 1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

ヨハネ伝1章1?5節
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 1. 幼児期
 終戦後の昭和23年11月11日、A郡ST町ST駅前にて生まれ、戦後雑然とした世相の中、無邪気にエネルギーあふれ、STの町中を走り回って遊びに熱中していました。
 大工の父、後年ST高校校門の近くでお好み焼き屋を営んだ母の次男として、親から期待されず、自由気ままに過ごしていました。弟、妹が生まれ、母もお好み焼き屋を始めていたこともあり、父も大工として、弟子を抱えて同居さしていたこと等もあり、家にいるより、かわいがってくれる祖父母の家につかりっきりでした。
  その祖父の隣家にIさん一家がいました。そこの私より4,5歳上のおねえさんに連れられて、町内のキリスト教会のクリスマス会に行きました。初めての教会は日常と違い別世界のような非常に新鮮に思えました。後日、小学校に入学したとき教会の牧師さんの孫娘さんと机が隣同士になり、かわいいなあと少しどきどきしました。幾度か誘われると教会に行きました。そのことが祖父にばれると、こっぴどくしかられました。祖父は天台宗の在家僧で、お不動さんのおじいさんといわれ、家に信者の人たちが集ういわゆる拝みやさんでしたから、西洋の神様を認めていませんでした。
両親から見放されていた私も、祖父には、かわいがられ、Yの家、自分のあとはお前が継ぐのだから、いろんなことがあってもそのことだけは忘れるな、といつも言われていました。次男の私は、兄貴が居るのに、おかしいなと思っていました。しかし、その言葉は今現実になっています。
お経と、ご詠歌を子守唄にして、お不動様、観音様信仰に熱心な祖父母の下での生活、表面的には異質なキリスト教との出会い、学業などそっちのけに遊びまわった、幼児期、いつもわくわくどきどき、していました。
 そんな生活は祖父の亡くなる小学1年生の昭和31年5月14日に終わりました。葬式の後、祖母と一緒に暮らすんだという私の願いは通らず、両親の元に暮らすよう連れて帰られました。祖母も転居し、2度と会えませんでした。
 2. 子供時代
祖父の死は、私を幼児から子供に変えました。人はいつか死ぬんだ。怖いと初めて思いました。
 暗闇がいつも背後から追いかけてきて飲み込まれてしまう恐怖が、常に頭から離れなくなりました。小学4年生まで、恐怖を吹き消す為もあり、学校の勉強そっちのけで、町中を遊びまくりました。
 小学4年生の1学期終了時に父親の仕事の都合で、隣町に引っ越しました。それまでも、私の覚えているかぎり、STの町の中で4回転居していましたが、狭い町中での引越しであり、私の生活にさほど影響はありませんでした。しかし、その当時のSY町は、私にしてみれば、遊ぶ町場がない大変田舎におもわれショックでした。
 死の恐怖を吹き消す為には、遊ぶ町場がなく、友達も居ない中、今まで見向きもしなかった学校の勉強しか残されていませんでした。
すると、神様が引っ張りあげてくれたのでしょう奇跡です。2学期の終了時には、クラスの上位の成績になりました。STの落ちこぼれが、何故と今でも不思議でたまりません。多分、神様の計画の賜物で、私が神様と出会うA高専に進学させる布石だったのでしょう。
 不満な田舎暮らしにも、いつの間にか快適に思えるようになり、だらだらと、日々を過ごしていました。そして家庭の事情などから、A高専に進学しました。
 3, 青年期
 二年生の頃に、寮と柔道部の先輩にキリスト教の教会に誘われ,通いだした。幼いころ、時々おじいさん(天台宗の在家僧)の目を盗んで、隣の姉ちゃんに連れられていった教会、そこの牧師さんの孫娘が同級生で可愛かった、その当時手の届かない高嶺の花と思えました。その様な甘酸っぱい過去が影響したのでしょう。動機はいつもながら、不純ですが、それでも結構まじめに通い、教会だけでなく、寮での週1回の学生だけの聖書研究会、先輩と共にこれも週1回M先生宅での家庭聖書研究会にも参加していた。M先生は、終戦直後東大の学生時代に、無教会派で、内村鑑三先生の弟子の矢内原忠雄先生の聖書研究会にて、先輩に当たる高橋三郎先生と共に教わったそうです。Aキリスト教会の斉藤剛毅牧師が、橋先生の教え子という関係もあり、斉藤牧師の要請でA高専の寮生のために家庭集会を開いてくださっていました。
イエス・キリスト、聖書が、それまでの私の知らない世界を教えてくれました。 高嶺の花の世界に入っていけるぞと、わくわくしていました。動機はともあれ、神様の導きは周囲の人たちによって私を育ててくれました。わからないながらも、社会の仕組み、矛盾点など真正面からぶつかっていく気概が与えられました。私にとって大変な進歩です。心の中の暗闇への恐怖に打ち勝つには、まさに神の子羊として生きることだとおもい、高専3年生のイースターに受洗しました。
今でも、賛美歌、主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ、わが主エスわが主エスわが主エス我を愛すが心にひびきます。

プロフィール

とっとー

Author:とっとー
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。